2013年3月30日土曜日

今日の路地12 「名」と路地

今回は入江研究室で行われている路地ゼミ中に登場する街路・路地に関する「名」の理論に対して、ヴァルター・ベンヤミンの言説を上乗せすることを目的とした。

ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)はドイツの批評家。ユダヤ系であり独自の美学的象徴論や寓意論を展開。ナチ時代には亡命地のパリなどでマルクス主義的芸術論や社会史研究を行った。パリ陥落後、逃亡の途上ピレネー山中で自殺。ベンヤミンの系譜が断片的にしか残っていないことや、自殺に至る所以はすべて、歴史の「起伏」のなかで発生した。技術社会の急激な発展の裏側で発生した余条件により、ベンヤミンの運命は決定されてゆき、その最もたる戦争の勃発により、自身の人生に悲運な終止符を打った。この断片的かつ時代に切り込むような言葉にこそ思想の確信があり、他者はベンヤミンを断片として記憶することは出来ても、その全体像を理解するものはいない。孤立を畏れぬ強靭な精神力、近代化に対する盲目的な忠誠から抜け出し、自身の断片と現在形を表明するために前進し、群衆のなかに都市を見た。都市、技術を錯覚する天才的陶酔者、あるいは複製技術時代の彷徨える迷子である。


私達の路地に対するノスタルジーを含む感覚は近代以降の知的思潮の影響からも派生してきていることはゼミから学習することが出来た。ベンヤミンの生きた複製技術の芸術時代を初めとする様々な思考、都市に対する陶酔経験は日本の路地の文脈とも本質的に繋がっているのである。何故なら現代の路地を知覚するのは近代以降の教育を受け、ある程度の固定観念を必然的に持ってしまった私達であるからである。


街路名にひそむ感覚性。それは普通の市民にとってどうにか感じとれる唯一の感覚性である
ヴァルター・ベンヤミン著『パサージュ論』断片群P「パリの街路」に登場する一節である。


「名」として街路・路地に新たな情報を付加することは、歩行者に対して純粋で感覚的な印象を呼び起こし、その印象は目の前に広がる路地の物理的な印象と相互浸透・二重化することで想起可能なイメージを増加させることが可能である。

「こうしたヴィジョンを引き起こすことができるのはたいていの場合、麻薬に限られている。ところが実際には街路名もこうした場合に、私達の知覚を押し広げ、多層的にしてくれる陶酔を起こすものとなる。街路名が私達をこうした状態へと誘ってくれる力を換気力と呼びたい。-だがそういっただけでは言い足りない。なぜなら連想ではなくイメージの相互浸透がここでは決定的だからである。ある種の病理現象を理解するにはこの事実を想起しなければならない。何時間も夜の町を徘徊し、帰るのを忘れてしまうような病気の人は、おそらくそうした力の手に落ちたのである。」

「普通ならごくわずかな言葉、すなわち特権階級にある言葉だけにとっておかれたことがらを、都市はすべての言葉に、あるいは少なくとも多くの言葉に可能にした。すなわち、名という高貴な地位に格上げされることである。この言語における革命はもっともありふれたもの、すなわち街路によってなしとげられた。街路名によって、都市は言葉の宇宙となる。」

以上『パサージュ論』断片群Pより抜粋。今後の路地に関する「名」の考察に対し都市を記号化しコード化してきた近代以降に始まる都市形成理論の一連の流れを理解することは重要である。

文責 赤池一仁

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